エリコ新聞

小林エリコのブログです。

当事者の家族

「あなたも多量服薬の当事者研究とかして大変だったかもしれないけど、うちの子はもっと大変なんだよ。本当に死んじゃうかもしれないんだよ!」

これはべてるの講演会に来た当事者の家族の方の講演会後の言葉である。

私は多量服薬の研究を発表した。私は何回も多量服薬をしてきて本当に毎回死にそうになって、心も体もぼろぼろだった。そんな私が自分の体と精神と医療機関に沢山のお金を払って研究した大事な研究である。その感想がこれだ。

まだ、自分の子供のことを永遠と話してるだけの方がましだ。自分の子供のことが確かに心配かもしれないが、電車賃とお金を払って話を聴きにきてこの言葉は いかなるものかと思う。この言葉を言われたのは2年くらい前だが、いまだに忘れられないし、その人の顔も覚えている。

講演会で当事者が話す言葉はとても貴重だと思っている。当事者は長いこと言葉を奪われてきた存在だからだ。当事者にとっても、自分のことを話すのはとても 苦痛だ。だから、話すときは安心できる場所でないといけないと思う。そうでないと、ますます当事者は声をあげることができないだろう。

私はこの親を責める気はない。親にとって子供はとても大切な存在だ。実際、私の母親も私のことでうつ病になってしまったくらいだ。

私はこの親の子どもが可哀想だと思う。多分親は自分の子どもの顔色を絶えずうかがい、身の回りの世話を全てして腫れ物を触るように扱っているだろう。そういう親では子供の回復は望めない。

だからといって当事者の親のことも責める気はない。親としてもとても辛いと思う。自分の大切な子どもが精神病になり、死ぬかもしれないのだ。医療機関も国や市の行う福祉も頼りにならず、わらにもすがる思いでべてるの講演会に来たのだろう。

べてるの講演会には何回も行ったが、そこに来ている親は、ずっと向谷地さんの話を聞いているように見えて全く聞いていない。向谷地さんの話したことには一切触れず自分の子供のことを話して「どうしたらいいですか?」と丸投げしているのである。

要するに「自分の子どもが良くなればいい」と思っているのである。他の家族の子どもがどうなのかとかは関係ない。読んで不快に感じる人もいるかも知れないが、当事者の私はそう感じる。

じゃあ、どうしたらいいのかと考えると、当事者が回復するしかない。そのためには周りの支援が必要だ。よい医療。当事者を支えるワーカー。グループホームや作業所などの社会資源の充実。しかし、残念ながら日本の精神医療はまだまだそこまでたどり着いていない。

あんまり書いていると長くなってきりがないのだが、一個人の幸福は世の中全体が幸せにならない限りありえないのである。