エリコ新聞

小林エリコのブログです。

真っ暗闇だった10代

10代というのは人間が一番美しい時期だと思うが、私は真っ暗闇だった。思い出すと目頭が熱くなる。今しがた、本を読んでいて、自分がどう生きてきたのかを考えていたら昔のことが脳裏に浮かんできて消えない。

小学校、中学校といじめに遭っていた。私は小学校低学年のころ、家の事情でお風呂に月に一回しか入っていなかった。他にもアニメや漫画が好きで、内向的だったのもあり、友達がほとんどできなくて、ずっと本を読んだり絵を描いたりしていた。学校の帰り道、自分の影を見ながら、人間は死んだらどうなるのかと考えた。眠った状態がずっと続くことなのだろうかと想像したら怖くなった。

小学生の頃は病気がちだった。大学病院を何個も回って原因不明の病気を治すのに躍起になっていた。下がらない熱、腹痛、耳鳴り。ほとんど、原因は家庭のことだった。親にネグレクトをされていたわけではないが、家庭不和のため、緊張が続く生活で、心の休まる時がなかった。

中学校に入ると、いじめが加速して、暴力が増えた。クラスメイトも私がいじめられる姿を見ても無視をしていた。いじめっ子たちは私と友達のふりをしていじめていた。私はバカだったからしばらく本当に友達だと思い込んでいたのだが、廊下や学校の外で話しかけるとキレられてしまい、戸惑った。

仲の良い子は何人かいたのは確かだが、その子たちは部活など、他のコミュニティに属していて、私が一番というわけでもなかった。みんなが放課後、部活に明け暮れるなか、一人で家に帰ってゲームをした。私は運動が大嫌いだったので、スポーツの部活に入りたくなかったし、文化系の部活にも魅力を感じなかった。そもそも、学校に長い間いたくなかった。一刻も早く家に帰りたかった。

精神が不安定になると成績が落ちていった。中学になっても病院通いは続いていて休む日にちが多かった。机の上に置いてあるプリントを集めて家で解くのだが、授業を受けていないので、わからない箇所が多い。私はどんどん落ちこぼれた。

私は口がたつのと、思ったことをはっきりいって言ってしまうので、教師たちからは生意気な生徒だと思われていた。理科の授業を聞いていて、塾の方がわかりやすかったので、それを言ってしまったら、泣き出すまで怒られた思い出がある。私は大人に嫌われやすかったし、問題児だった。

高校は真ん中より少し上の高校に行った。中学のクラスメイトがほとんど行かない所に決めた。とても遠い高校だった。茨城の田んぼ道を30分以上自転車で漕いだ。いじめられはしなかったが友達はできなかった。私は小学校と中学校の恐怖から誰にも心を開かなくなった。私の話し相手はもっぱら「いのちの電話」だった。夕方、公衆電話で知らない相談員の人に「何も希望がない」と話した。生まれてきてからずっと孤独だった。誰とも何かをわかちあえる感覚を得られず、人を信用することもできなかった。眠れなくなり、精神科に通院を始めた。輝かしい10代、私は人として底の方を這いずり回っていた。

学校をサボってもいいのではないかと思いついて、バレない程度にサボり始めた。学校とは逆方向の電車に乗って上野公園に行った。母のお弁当を食べながら鳩に餌をあげたりした。

中学で基礎ができていなかったので、高校もあまり勉強ができず、ついていけなくなってしまい、私はとうとう勉強をするのをやめた。テスト前だけ詰め込んで、それ以外はずっと本を読んでいた。人生論や精神分析の本を読んでも救われることはなく、宗教の本を読み始めた。

あの頃、私の心の支えになっていたのは自殺することだった。自らの命を断てば、この苦しみから救われるということだけが希望だった。友達がいないというのは本当に孤独だったし、誰からも好かれないというのは恐怖だった。

高校生の頃から20年経って、今、私はいくばくかの友達がいる。とてもありがたいことだ。同時にとても怖い。私と別れた後、私のことを悪く思っているんじゃないかと心配したりする。昨年末、本を出版した。本を出してくれるくらいだから、編集者は文才があると思ってくれているはずなのに、頭が悪いと思われていると思ってしまう。

自分で自分に「思い違いだよ」と声かけをするように心がける。そうでなければ、遊びに応じてくれるわけもなく、仕事をくれるはずもないのだ。

今だに、子供の頃からの、お前は無能だという周囲の呪いが解けきれていないのがおぞましい。