エリコ新聞

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小山田圭吾の炎上でモヤモヤしている

小山田圭吾がオリンピック・パラリンピックの音楽を担当することになった。そして、過去に障害者に対して行なっていたいじめの件について再燃。小山田圭吾が謝罪した。

 私は90年代、コーネリアスを聴いていたが、いじめについて知ったのは数年前に担当編集者に教えてもらった時だったので、かなり遅かった。そして、好きで聞いていたことが単純にショックだった。

ショックだったのもあるし、ネットの記事を読むと「いじめ」というカテゴリで括っても良いのかと思われるレベルであるし、周囲の人間や教師は何もしなかったのが腹立たしいし、小山田圭吾が社会的に成功してしまったのもいじめの被害者として悔しい。

ちなみに、私は小学校と中学校でそれなりにひどいいじめを受けていた。掃除の時間に泣くまで蹴られたり、廊下で水をかけられたり、机の中身をぶちまけられて教科書やノートを踏み躙られた。

その様子を見て助けてくれた生徒はおらず、先生は「お前はクラスメイトから嫌われている」と放課後に告げてくるくらいだった。

全校生徒が千人いたとして、私の味方は一人もいなかった。私はあの時、社会はいじめられている人間に優しくないし、いじめの外にいる人間には私のことは空気みたいな存在なのだろうなと感じていた。

ちなみに、いじめについて書いた本は「生きながら十代に葬られ」である。 

 

この本は書いた中で一番しんどくて、書いている最中、ほぼ泣いていた。

学校という閉鎖された空間では、社会の法律が適用されず、生徒や先生がクラスメイトに暴力を振るっても誰にもわからないブラックボックスなのだと後々理解した。

いじめの加害者は、いじめた事実を重く受け止めないし、なんなら武勇伝のように語る。そして、生活をしていてもいじめたことを考える時間はほとんどない。しかし、いじめられた方は一生忘れられないし、PTSDという病気になる人もいる。

オリンピック・パラリンピックの音楽担当がいじめの加害者ということで、この件はかなり炎上し、怒りに溢れるツイートをたくさん見たが、私の肌感覚として、いじめに関して怒っている人など過去の体験ではいなかった。

私が覚えているのは、蹴られている私を空気のように扱うクラスメイトたちのことだけである。

多分、いじめというのは大多数の人が経験しているものだと思うのだけれど(加害者、傍観者、被害者として)いじめに対して怒ったり、止めたりした人は何人くらいいるのだろう。多分、いじめを止める人よりも、被害者を笑い物にしている人が多いのは容易に想像できる。

そして、インターネットとSNSが生まれたら、いじめ加害者の小山田圭吾をたくさんの人間が叩いているのに違和感を感じる。小山田圭吾を知っているのは90年代の人であろうから、三十代後半から四十代くらいだろう。

自分が学校と遠く離れて、なんなら子供ができたりして「いじめは良くない」と声を大にして言えるようになったのだろうか。いじめが悪いことだと分かったのはつい最近なのだろうか。いじめの傍観者であった人間が小山田圭吾を叩くことができるのか。

もちろん、今回の炎上で小山田圭吾自身が謝罪文を出したのは一歩前進だと思うが、長年放置されていたこと、そして、自分自身、いじめと戦う勇気ある人を近くで見たことがないので、非常にモヤモヤする炎上だった。

そして、多分、私をいじめた人間も、私をいじめたことなどすっかり忘れていて「小山田ってやつ、まじ許せねえ」とかスマホを見ながら呟いていると思う。ちなみに、私はいじめた人の名前も顔も全て覚えている。どうせなら、彼女、彼らの罪もネットで炎上してほしいと思うが、彼らは大した才能もないので、炎上すらできない。哀れで虚しい。