塚本晋也の「野火」を観てきた。私の中で塚本晋也は「鉄男」で止まっていた。あの塚本晋也が「野火」。正直「怖い」という思いに駆られ観るのをやめようかと思っていた。私は市川崑の「野火」が記憶にない。観ていないのだろうか。原作は高校生の時に読んだ。
戦争がなんだったのか、戦争とはなんなのかを考えていた学生時代、行き着いた答え。
私にとって戦争とは「人肉」であった。
計り知れない飢え。死の恐怖の先にあるのは狂気。
「いいお天気ですね」そういって手榴弾で自らの命をたった兵隊。ああ、そうだ。私は原作を読んだ時、この兵隊は幸せだったと思った。映画の中でも一番幸せのような気がする。
真っ黒な顔の男たちは戦いよりも生きることに執着し、すでに人ではなくなっていく。飢え。血。肉。恐怖。死。
蛆虫が体を覆い、体についたヒルを口に入れ、猿の肉を喰う。
あまりにも平穏な日常を送り続けている私は久しぶりに自分が生きている感覚を取り戻した。
戦争だけはしてはいけない。戦争はいけない。それは最後のシーンで主人公が原稿用紙に向かっている時に両手を握りしめて体を痙攣させるかのような動きに現れている。あれは強い平和への祈りだ。
あの島の記憶を消したい、しかし、その記憶は消えないのだ。それ以前にそれを消してしまっては全てをなかったことにしてしまう。残さねばならない。戦争というものを。
映画館には新聞で紹介された記事がたくさん貼られていた。私は映画を見終わったあと、じっくり読んでいた。その時に戦中か戦争直後を知っていると思われるご高齢の男性が現れた。渋谷のユーロスペースというわかりにくい場所にも関わらずやってきた。やはり迷ってしまったららしく受付で「渋谷駅から迷ってしまって。もう開演しましたか?」と息をきらして聞いていた。予告編があるので本編の上映はまだ先だと教えてもらって安心していた。
映画はかなり凄惨な内容で怖くて仕方なかったが、上映館に人がいるのが心強かった。あの映画館に一人きりだったら私は逃げ出していただろう。でも、私とすれ違ったおじいさんはきっと一人でも観れる。野火を見るために渋谷のラブホ街を走り抜けた人なのだから。