エリコ新聞

小林エリコのブログです。

リアルな女の気持ちを描いた「おもひでぽろぽろ」

おもひでぽろぽろ」、私はこの映画を公開当時見に行った。父と二人で。10代だったと思う。映画館の中は大人の男性が多かった。10代の私はなんとなく居心地が悪かった。映画を最後の方まで見て「あまりぱっとしない映画だな」と思った。エンディングの歌が流れた時、二人の男性が席を立った。

「あと少しでラストシーンなのになぜ立ち上がるのだろう。本当に映画が終わるエンドロールではないのに、なぜ、ここまで見て席を立つのだろう」

単純に私はそう思った。

私は「おもひでぽろぽろ」をずっと見ないで生きてきた。私の中で「ぱっとしない」作品だった。でも、今日、金曜ロードショーで何十年ぶりに見た「おもひでぽろぽろ」はまぎれもない名作だった。

私は、ずっと「女」の存在を無視してきた。私は映画館で席を立った男性と同じだったのだ。「女」は見たくなかったのだ。

おもひでぽろぽろ」は27歳の主人公が山形の田舎に行くところから始まる。小学5年生の自分を連れて。小学5年生のおもいでを連れて。

最初のシーンで凄かったのは母親が通信簿を見て悪い成績にしか目に入らないところを視覚的に表したシーンだ。縦と横に入った光が交差したなかに一番悪い成績がある。母親はいいところはみない。悪いところをみる。

「女」はいつから「女」になるのだろうかと時々考える。答えは簡単で、そう思った時が女になった瞬間である。

女になる前の私はさっぱり理解できなかったこの作品を、今の私ははっきり理解できる。生理が来ること、男子に生理のことを知られたくないこと。初恋の相手と好きな天気が同じだけで舞い上がってしまうこと。小さく思える出来事が女の子にとっては一大事だと言える。

主人公は3人姉妹の末っ子だ。姉のエナメルのバックが欲しいとねだる。他にバックを持っているのに、お下がりでもくれない姉に腹をたてる。自分の持っているバックは幼稚園の子供が持つようなバックなのだ。そんなバックで中華料理を食べに行けない。おしゃれをして、上下おそろいの服をきているのにダサいバックを持つのはいやだ。大人っぽいハンドバックがないと歩くのが恥ずかしい。

私は10代の時、この思考回路がわからなかった。小学生で「ハンドバック」を欲しがる気持ちがわからなかった。ハンドバックなどなくても食事に行けばいいじゃないか、と思った。

案の定、主人公の父親は駄々をこねる自分の娘に激怒する。家族が自分をおいて食事に行ってしまうと知った主人公は裸足で家を飛び出す。父は娘の洋服をボタンが取れるほど強く掴み、頬を叩く。

愛されるべき娘が父に叩かれるというのは心に重たくのしかかる。後にも先にも一度きりの父の行動。外見を重視する娘の気持ちがわからない。でも、外見を重視するのは男なのだ。父親と娘という関係は不幸である。この世の不幸は親と子供が存在した瞬間に始まるのだ。

非常にわかりやすいシーンがある。主人公が分数のかけ算ができなくて母親に怒られるシーンが出てくる。姉にもバカにされる。

「なんでこんな簡単なことがわからないの?かける時に分母と分子を入れかえればいいだけじゃない」

そう、簡単なことなのだ。ただ、公式の通りにといていればできることなのだ。だけど、自分の頭では納得がいかない。

27歳の主人公はさらりと言う。

「分数のかけ算を解くのに困らない子は、その後もするりといけちゃうのよ。結婚して、子供を産んで。そういうふうになっているのよ」

そう。女とはそういうものなのだ。納得のいかないことを考えず、するりとできてしまう女の子は生きやすい。なぜ、化粧をするのか、なぜ、女の仕事は限られているのか、なぜ、女には生理がくるのか。もちろん、納得がいかないと頭ではわかっていてもそのままやってのけてしまうのだろう。ただ、それをやってのけることができない女は一定数いる。

おもひでぽろぽろ」は女の気持ちを細やかに表現した作品だ。そして、描かれている女は等身大の女だ。アニメーションでは女性にほうれい線を入れない。年齢が上の女性には老けた顔に見せるために入れるが27歳の女性には入れない。だけど主人公にはほうれい線が描かれている。口を開けて笑った時にはしわがよる。そして、胸はぺたんこだ。少しふっくらしているが、大げさにかかれていない。女性の胸の大きさはあれくらいが普通の大きさだ。もちろん、胸の大きさに個人差はあるが、いやでも目に入るほど大きい人だけではない。

しかし、高畑勲監督はなぜ、ここまでリアルに女の気持ちがわかるのか、それだけが謎である。