エリコ新聞

小林エリコのブログです。

口紅

「センパイ、このクリームすごくいいんだよ」短大時代の後輩のえりこちゃんは私に言った。ドラッグストアの棚に陳列されたクリームは少しの量なのに6千円もする。私は思わず「高すぎる」と口からもらした。

えりこちゃんの目当ては同じメーカーの化粧水で、店員さんと話しながらスムーズに買い物を続けた。私はクリームの横に飾られた「2017年コスメアワード」の文字を眺めていた。

「あー!ちょっと何してんの!」

そう言ってえりこちゃんは自分の娘の肩を掴んだ。

娘ちゃんは口紅を手に持ち口の周りを真っ赤にしていた。口元にはめちゃくちゃに口紅が塗られ、まるでホラー映画の登場人物のようである。ウォーキングデットに出ていてもおかしくない。

化粧品売り場の店員さんはコットンにクレンジングを含ませて渡してくれた。私が受け取り娘ちゃんの唇を拭く。いたずらをしたのにニコニコしていて可愛らしい。娘ちゃんは、まだ常識や善悪のない、混沌とした世界で生きているのだ。

娘ちゃんの唇を拭きながら、私はこんないたずらをしたことがあっただろうかと考える。ああ、あったぞ。記憶を掘り起こすと口紅を持って画用紙に絵を描く私が現れた。

普通の女の子なら母親の真似をして口紅を口に塗るのに、私は何をしているのだろう。私は化粧への関心がゼロだった。自分の顔面にあまり興味を持てず、興味があるのは自分の外の世界ばかりで、周りのものを紙に起こすことに熱中していた。

画材が足りなくて目をつけたのは母の口紅だった。それは、母がデパートで働いている親戚からもらったもので、試供品の口紅が20色くらい一つのケースにグラデーションで並んでいた。あの口紅で絵を描いたらどんな塗り心地なのだろうと想像して、それを見るたびに、使いたくなった。

1年立っても母がそれに手をつけないので、私はもういらないものなのだと判断して、母のいないすきに口紅のケースを開けた。朱色から茶色に近い色まであり、私は初めて口紅を塗る女の子と同じくらい胸が踊った。白い紙の上を口紅はなめらかに滑り、私はうっとりした。少ししか使わなかったのでバレないと思ったのに、次の日、母に叱られた。

それから10年経っても私は口紅を引かなかった。私は本当の美しさは内面に宿ると信じていたがそれは間違いであった。

私は冴えなくて、ダサくて、女としての魅力がなくて、酒の席では端っこの方にいた。それから20年経ってやっと口紅を引けるようになった。

私にとって口紅は女を区切る線だ。口紅を引ける女はためらうことなく、男の視界の世界に飛び込むことができる。私はようやくあちら側にジャンプすることができた。化粧は甲冑の一種だ。自分を守り強くしてくれる。